Note

稽古日誌5/30

2021年5月30日(日) 公開

出産ブランクのある横山てんこから基礎稽古をしたいというリクエストを受け、しばらくの期間、月3回ほどの基礎稽古をしていくことにした。5月の3回は森仁美も参加だった。
予定では、
5月 10日(月)13時〜15時 基礎稽古「基礎の基礎:遣い手特有の身体1、胴串の持ち方/うなづき操作」
5月17日(月)13時〜15時 基礎稽古「基礎の基礎:遣い手特有の身体2、等身大胴串人形の基礎1」
5月24日(月)13時〜15時 基礎稽古「基礎の基礎:遣い手特有の身体3、等身大胴串人形の基礎2」
と計画していたが、初回の稽古で、遣い手特有の身体も胴串操作も基礎の基礎からやり直したほうが良さそうだったので稽古内容を変更し「人形遣いの身体の特殊性と、胴串という道具の可能性獲得を関連ずけて取得する、徹底丁寧基礎の基礎」を課題として進めた。
遣い手が用いるモノは決して決して決して道具ではありません。でも胴串は特殊な道具。使いこなせてなんぼのもんかいであり、使いこなせた先にしか自由はありません。しかも、インディペンデントな私たちには決まった規範の何号胴串みたいなのがあるわけではなく、一つづつ特注、と言えば聞こえも良いですが、完成品は遣い手が最後に仕上げる手作りキットみたいなものです。そういう毎回性に対して基盤となるのは「手」「手」は自分の手であるという一回性?です。その「手」が特殊な道具である胴串の構造的機能的習性の原理原則を解っていれば、毎回性が楽になるのです。それには、一つの胴串だけに通用するのではないどの胴串にも備わっているはずの胴串と呼ばれるものが携えている機能を知らなければなりません。胴串のできることを使い切れなければなりません。などというところにギリギリ攻め込んでやってみました。容赦無く難しかったです。しかし、少し前には「インドの数学方式」と嘘ぶいて、機能を使ってるだけでは全くダメ、全ての機能は意思具現のためにあるという稽古をやっていたからか、二人とも基礎の底掘りみたいな稽古にも関わらずカシラだけの人形を大変表情豊かに動かしていました。そして人形がそうなっていることにも気づかないほど必死に指と腕の不自由さに苦しんでいました。
これは本当〜にやり続けなければできるようになることではないんです。でも、これができなくても人形を素敵に演じさせることはできます。では、なんでやるんでしょう???わかりません。
私は手が楽しいんです。『 SHU-INN』なんです。だから、そこに溺れても表現にはたどり着けません。むしろ遠のきます。邪魔にさえなったりします。自分がやりたいことを実現するために必然だったのです。いつの間にかやっていたんです。だから、胴串が使いこなせることが必要でなければしなくても良いのだと思います。胴串人形だけが人形ではありません。けれど、胴串を使いこなせると他への応用範囲は広いと思います。

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